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Voice Of LIfe〜体験者からのメッセージ〜 |
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“一人なんかじゃないよ”
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初発手術時 37歳 局所再発 39歳 形成手術 40歳
私の30代は手術ばかりだったように思う。子宮筋腫で子宮と卵巣を取ったのが35歳。36歳で乳がんと告知され、一年後の37歳で乳房全摘手術。1年8ヶ月後に同じ場所への局所再発で無い胸を更にえぐり取り、リンパにも転移が認められたので切除。その後抗がん剤(EC+T)治療を半年行い、現在はホルモン療法中である。えぐり取った傷跡をふたする為、同時に太ももの皮膚を移植したのだがうまく着かずに、9ヶ月の間傷は完全にふさがることなく、毎日薬を塗っていた。その醜い穴のあいた傷は私の心にも穴をあけ、治らない傷跡を残した。その傷を治す為、胸壁再建手術を受けたのが今年、まもなく40歳を迎えるときだった。これが30代では4回目、27歳の開腹手術を入れると、全身麻酔は5回目だった。
いつももう手術はこれで最後と思うのだが、そうはさせてくれぬ運命を最初は中々受け入れる事はできなかった。
27歳で子宮筋腫と言われ筋腫を取る手術に始まり、8年後に再発し子宮も卵巣もなくなると言われたときには、子供を生んでいない私は心底逃げ出したかった。しかしこれで最後と自分を無理やり納得させ手術を受け、もとの日常に戻っていった。
それから一年後、私は乳がんの告知を受けた。『そんなはずはない、何かの間違いだ』乳がんの知識など無い私には、現実を受け入れる事はできなかった。子宮も卵巣も失ったのに、何で又乳房までも失わなければならないのか?何の為に女に生まれたのか?私はまだ30代なのにー。
手術は2度といや。その思いだけで私は間違った道を突き進んでいった。西洋医学を拒否し漢方療法、健康食品、民間療法、免疫療法と様々なものにすがりさまよっていった。【治る、消える】そんな甘い言葉にどんどん深みにはまっていった。『自分の身体は自分で治す』本気でそう思っていた。しかし無情にもしこりは大きくなるばかり『もう手におえない』と諦めるのに一年近くの月日がたち、手術したときには1.2cmのしこりは6cmにまでなっていた。今思うとお金を使って命を削っていたように思う。
不幸中の幸いでリンパへの転移はなく、癌のタイプも粘液癌という性質の比較的良いものであった為手術で切除できた。放射線こそ受けたものの、もう病気は治ったと自分で勝手に解釈し、私は標準治療を受けないで過ごした。【乳がんは切ってからが本当の始まり】という事を知らなかったのだ。現実からも病気からも目を背け逃げていたそんなある日、切り取った同じ場所にパチンコ大のしこりを見つけたのは術後1年8ヶ月後の事だった。
乳腺外科を恐る恐る訪ねると間違いなく局所再発で、おまけにリンパ節にまで更に大きな癌があった。【抗がん剤】と言われたときは頭が真っ白になった。しかしもう逃げる事はできず、医師の言葉に従った。『過去の事は振り返らず、今から軌道修正すればいい。ここでしっかり標準治療をすれば寿命まで生きられる可能性があるよ。』
【再発=死】と思い絶望のふちに立たされていた私は、この言葉に希望の光を見出し、それにすがった。ホルモン治療、手術、抗がん剤と短期間でどんどん進められていく治療。更に術後の患部の治りが悪く、リンパ液の吸引、細菌感染などで2ヶ月近く通院しなければならなかった。次から次へと襲い掛かるトラブルと不安に心は悲鳴をあげていた。今まで弱みを見せずに強がっていた自分が壊れそうになり、それから自分探しが始まった。
本をむさぼるように読み、ネット上をさまよい、このVOLのページにたどり着き掲示板で自分を吐き出す事ができた。寄り添ってくれる誰かの暖かいレスに何度涙した事か。本当に支えられ救われたのだ。治療の合間に講演会や勉強会などにも積極的に出向くようになり、そこで誰かと出会うことができる。病院でも同じ病気の人と話し友達の輪がどんどん広がり、辛いのは自分だけじゃない事に気付いた。一人では本当に辛い。同じ痛みを共有する友達に支えられ、又自分も支えている。それに気付いたとき少し強くなれた。泣いてばっかりで弱い自分、でもその弱さを認めたとき人は昨日より強くなれる。泣きたいときに泣けばいい。それは明日笑うための涙だから。これから先まだまだ涙する日はいっぱいあるだろうけど、みんなに支えられて一歩ずつ歩いてゆけばきっと乗り越えられるはず。“一人なんかじゃないよ” |
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ミエル(2004.11.1) |
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